• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

私は鉄道ファンとしては「蒸気機関車(蒸機)」からスタートしている。幼少時から青年時代までを過ごしたのは、国鉄(現JR)総武本線の千葉駅周辺であり、近くには千葉機関区もあって、C57、C58、D51が煙を上げていた。やがてその跡地に「千葉」新駅ができ、蒸機は佐倉、蘇我の拠点に分散されたが、東京方面はともかく千葉から銚子や房総方面は、私が学生の頃までは蒸機が鉄路の主役だった。
朝起きて、雪が降っているといえば南酒々井に、夏季房総臨の時期になれば竹岡や冨浦にカメラを担いで出かけたものだった。

そんな私にも「好きな電車」というのがあった。それは“2200”。いわずと知れた近鉄のモ2200とその仲間たちである。中学生の頃には見たこともなかった。当時、千葉の少年が関西に電車を見に行くなど考えられない時代だった。それが、高校3年の夏休み、亀山のC51を撮りに行った際、近鉄名古屋線の急行宇治山田行きに名古屋から津まで“2200”に乗ったのだ。車内は木製、2ドア・クロスシートの電車は私には珍しいものだった。2ドア・クロスシートというだけなら、東京の上野から父の故郷である高崎までよく乗った80系湘南電車も知っていたし、蒸機が牽く客車も同様だった。でも、あの“2200”は違っていた。何といっても「ゆとり」と「気品」が感じられる車両だったのだ。①名古屋線の急行、最後部は後期車(桑名付近)。

“2200”こと近鉄モ2200一族は、1930年に当時の参宮急行(近鉄の前身)が大阪~伊勢の直通列車用として製造した車両で、両運転台の電動車「モ2200」が26両、片運転台の制御車「ク3100」が5両、運転台なしの付随車「サ3000」が17両製造された。ほかに片運転台の荷物室付き電動車「モニ2300」が8両造られ、うち1両はレクリエーションカーに改装された時期もあった。荷物室の次にコンパートメントの特別室が2室あったが、のちに一般に開放された。同じ“2200”でも後期型は運転台の次がすぐにドアではなく窓2個分の座席が設置されその次がドアというデザインになり、屋根も張り上げ屋根で近代的だが、武骨な感じは前期車と変わらない。②大阪の鶴橋で撮った後期車2239。
後期型は「紀元2600年」の前年1939年から、モ2200が20両、ク3110が5両、それに皇族用ともいわれた貴賓車「サ2600」が1両製造された。後期車は2227型ともいわれ、車内は普通の4人向かい合わせのクロスシートではなく2人掛けの転換クロスに変更された。もう56年近く前のことだが、宇治山田から津まで、この転換クロスに2人ならんで乗った思い出もある。

“2200”はもともと近鉄大阪線・山田線の車両だったが、以前のコラム「ビスタカーⅡ・・・」で触れた「近鉄名古屋線の改軌」により1959年以降は名古屋線の急行にも使われるようになった。1960年以降は3ドア化などの改造が進んだが、2205と2206は1970年頃まで2ドアのまま活躍した。いずれも1970年代に廃車となって姿を消したが、まさに電車の代表ともいえる主電動機出力150kw×4個の吊掛駆動の走行音は、今思い出しても素晴らしいものがある。そういえばどこにしまい込んだか、その走行音を採ってきた録音テープ(名古屋線)があるはず。今度探して聞いてみよう。また、モ2200の第2エンドは半室運転台で、半室はトイレだった。前頭部が片目になっている。③1965年7月に名古屋近郊烏森(かすもり)付近で。
(注、モ・ク・サなどの呼称は、近鉄時代に揃えた)


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