• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

JRが日本国有鉄道(国鉄)であった時代、日本各地たとえば東京から信越方面には特急「白鳥」、急行「白山」「志賀」、準急「あさま」といった名列車の数々が走っていた。1961年秋のダイヤ改正時には336の愛称があったと言われている。東海道本線の特急「つばめ」や「はと」は誰もがご存じだっただろう。
私にとって思い入れのある列車は何かと聞かれれば、迷わず「伊勢」と答える。かつて参宮線の鳥羽と東京を結んでいた夜行急行列車だ。何度か利用したが、それぞれに忘れがたい思い出が詰まっている。

私は1946年生まれだからそれ以前のことは実際に見たわけではないが、聞き及ぶところによれば、「伊勢」の前身は、1926年8月15日から運転された東京~鳥羽間の直通快速第241(下り)・242(上り)列車(のち447・448列車)であるとされている。①はその車内に置かれた記念スタンプの印影である。伊勢の名勝「二見が浦の夫婦岩」がデザインされていた。私のコレクションにはこんなものまである。
この列車は第2次世界大戦下の1943年に廃止されたが、1950年10月に急行列車として設定された東京~湊町間(関西本線経由)の列車に鳥羽行き(亀山~鳥羽は普通列車)の編成が増結されたことで復活した。この列車は翌11月に「大和(やまと)」と命名され、利用客の増加により1953年10月には鳥羽編成を独立させることになった。これが新生「伊勢」の始まりである。当初は東京~名古屋の夜行列車としての性格が強く、12両編成のうち5両だけが名古屋から先、鳥羽までを走った。その後6両編成に増強され、1956年11月には寝台車連結、全車指定席化。「大和」や紀勢本線が全通した1959年7月15日から新宮~東京に運転された急行「那智」との併結②(品川方向から東京駅に回送で入線時)などで、1964年10月の東海道新幹線開業後も、伊勢と東京を結ぶ列車として活躍し続けた。最盛期の繁忙期には不定期急行「第2伊勢」が運転されたこともあった。

私が初めて急行「伊勢」に乗ったのは、1965年3月20日の夜③。高校の卒業式の少し後だった。津市内に住む友人を訪ね、その帰途だった。写真はないが、津21時40分発のこの列車は次の停車駅亀山までの15.5kmをDF50が牽引し、名古屋までは名古屋機関区のC57、その先東京までは浜松機関区のEF58の牽引であることは知っていた。客車は東京・鳥羽間の「伊勢」と東京・紀伊勝浦間の「那智」の各6両が、多気で併結され12両編成で津に到着する。先頭のDF5034とはその前年の夏休みにC51を訪ねた亀山機関区以来の再会だった。
津の上りホームは短い(現在は延長されている)。だからホームの端では止まらない。構内の外れまでどんどん行ってしまう。当時は客車の塗色が室内の蛍光灯化など近代化改装された車両はぶどう2号(茶)から青15号に順次塗り替えられていた頃で、まず青い「那智」編成が眼前を通過した。東シナ(品川客車区)の車だ。私が乗るのは「伊勢」。目の前に停まったのは茶色のオハネ17。天イセ(伊勢客車区)の6両はまだ茶色のままだった。「那智」の方はオロネ10、ナロ10、ナハネ11×2、ナハフ11×2で編成され、こちら「伊勢」にはロネがなく、スロ54、オハネ17×2、スハ43、スハフ42×2による6両編成で、ちょっと差をつけられていた。2等寝台も那智のナハネ11は新製軽量客車。伊勢のオハネ17は同じように見えても旧型車の台枠を使った車体のみ新造車で台車も旧来のTR47と見劣りがした。
津で乗ったのは私だけ。オハネ17158はガラガラで寝台のセットも予約の入っているベッドだけだった。DF5034はそんなことは知らないヨッ!とズルツアーのエンジン音を響かせて発車した。私はすぐに眠ってしまい、気づいたら四日市を過ぎたあたり、C57が軽快なドラフト音を響かせて伊勢平野を走っていた。またすぐに眠りにつき夢を見つつ「間もなく終着駅東京・・・」だった。

(「その2」に続く)


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