• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

2022年12月1日の朝日新聞朝刊、東海総合版の東海歌壇に「駅員が切符を切らなくなってから鉄道の旅は旅情を失った」という趣旨の短歌があった。確かに今は駅員が切符を切らないどころか「チケットレス」で切符もない。あったとしても裏面が磁気タイプの切符はスッと改札機を通すだけだ。たまに改札機を通せない切符もあるにはあるが。ちょっとした近郊日帰り旅では普段と変わらぬ「スイカ」か「パスモ」。そういえばあの切符切りで旅情を感じていたのかもしれないと、あの頃の切符を見つめ直してみた。

「あの頃」とはいつ頃のことか。磁気乗車券を使用した最初の自動改札機は1967年に阪急電鉄(当時は京阪神急行電鉄)が北千里駅に設置したのが最初で、1970年代になると少しずつ全国に広がり、国鉄の分割民営化がその合理化を後押ししたように思う。私の地元「千葉駅」でも朝のラッシュ時には8つの改札ブースのすべてに駅員がいて切符を切っていた。それがいつの間にか自動改札になって駅員は一人になっていた。

切符も変わった。硬券と呼ばれる厚紙の切符が主流だったが、特急や寝台などの指定券類がコンピューターで発券されるようになると柔らかくて少し大きめの軟券が主流になり、近距離切符も自動販売機の普及で軟券化が進んだ。切符の自動販売機といえば、初めのころはいろいろな機械があって、京成上野駅にあった、お金を入れてから10円・20円・30円のボタンを押して、大きなハンドルをガッチャンと下に押し下げると切符が出てきたアレ、1967年頃を最後に見かけなくなったが、一番懐かしい切符の自販機だ。

さて、懐かしい切符のいくつかをご紹介しよう。
かつて準急行(一般に準急)という列車があって、幹線からローカル線まで、全国を駆けまわっていた。1966年には100kmを超える距離を走る準急行は普通急行(いわゆる急行)に統一され、その「急行」もいまやほとんどなくなって「特急」になってしまった。①は準急の券である。上は作並からの準急券。作並は日本の交流電化発祥の地で、いろいろな試作車輛や蒸気機関車C58、そしてED14などの古い直流電気機関車がいて、今なら聖地になっていたかもしれない。私が高校2年の冬休みに撮影に出かけた際、作並から米沢まで「準急あさひ2号」に乗ったときの券だ。
需要の多いところでは普通乗車券と準急行券が一体になった券もあった。真ん中の京都から名古屋は準急比叡号用の券で「比叡」は一日何本も走っていた。この横長の件はD券といって左に乗車券右に準急券が印刷され、駅員はその両方にパチンパチンと鋏を入れていた。乗車券類(硬券)では最大のサイズで何となく旅も楽しくなった。地域によっては下のようにA券で一体化したのもあって、何か物足りなかった。

急行も同様だったが②の上2枚は乗車券と急行券が別々のものだ。小田原から急行伊豆号の1等車(今のグリーン車)で帰ったときの券である。一番下は「東京都区内⇒東京都区内」という券で、軽井沢北陸東海道経由とあるように、グルッと一周する乗車券だが、硬券でちゃんと印刷されているということは需要があったのだろう。途中の富山と金沢の下車印が押してある。この途中下車の際のゴム印を押してもらうのも、旅の楽しみの一つだったと思う。

③の3枚は手書きの硬券である。上の2枚は高校2年のゴールデンウィークにアプト式のED42が牽く列車を撮りに碓氷峠の熊ノ平へ往復した時の往復乗車券でC券といわれるタイプの乗車券で下半分が往路、上半分が帰路の券だ。学割の印も押してあって、急ぐ私にササッと作ってくれた駅員さん、ありがとうございました。
一番下の券は「千葉⇒新前橋」だが、経由地が「軽 信越 飯山 上越」となっていて長野の下車印がある。碓氷峠と飯山線に出かけたのを思い出す。

最後に、国鉄が3等級制だった最後の頃④。1960年頃の、上から普通乗車券(A券)、地図式のB券、赤い3本線の入った特別急行券(特急券)。特急は客車時代の「かもめ」の最後の頃だから、客車は特急用のスハ44ではなく、一般用のナハ10か11だった。東海道に第3の特急「さくら」を走らせるために、山陽路の「かもめ」の特急用客車を取り上げた話は、当時有名だった。そんなことまで思い出させるのがこの特急券だ。それにしても真ん中の券を見ると、10円で随分遠くまで行けたものよ。


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