蒸気機関車(蒸機)といえば「デコイチ(D51)」といわれたこともあったが、私の心の中では「蒸機といえばC57」であろう。D50も大好きだったが身近にはいなかった。しかしC57は私の自宅からもその走る姿がよく見えた「地元の蒸機」だった。
このホームページのトップ画面の蒸機3重連は播但線のC57であり、固定ページにも地元千葉のC57がかなり登場している。コラムにも何回かC57について書いたが、今日はまだ紹介していないC57について記そう。といっても一度には紹介しきれないので(1)とした。
C57といえば「貴婦人」として知られている。動輪配置が2C1。つまり先輪2軸+動輪3軸+従輪1軸のテンダー機関車で一般に「パシフィック」と呼ばれ、日本の近代蒸機の中では、ボイラーが細身のC51、C54、C55、C57を「ライト・パシ」、ボイラーが太く重量感のあるC53、C59、を「ヘビー・パシ」と呼んでいる。
「ライト・パシ」の中でも一番新しく洗練されたスタイルから「貴婦人」と呼ばれているらしいのだが、私はちょっと賛同しかねる呼称である。
さて今回の主役は①のC57139だ。これは1965年7月4日桑名駅下りホームに停車中の亀山行き215列車である。この機関車は名古屋機関区の著名機であった。両陛下の伊勢行幸の際のお召列車を幾度となく牽き、急行「伊勢」や快速列車の先頭に立ち、さらには名古屋機関区最後の蒸機牽引旅客列車の牽引機として知られている。その最後の旅客列車は、1969年9月30日16時16分名古屋発の229列車だった。名古屋機関区では、お召列車運転時と同じ装飾を施した。その写真を志摩在住の友人から送っていただいたが、私自身は社会人一年目で、特に月末から月初にかけては23時までの残業や休日出勤で「休暇を」とはとても言えず断念した。通常この機関車は名古屋機関区の慣習でナンバープレートを赤く塗られていたが、どういうわけか①の撮影時には緑だった。給水温め器のバンドなど一部にお召列車装備の名残が見られる美しい蒸機だった。
C57139は1940年9月4日に三菱重工神戸造船所で誕生(製造番号309)。広島、糸崎の各機関区を経て1947年5月に名古屋機関区に配属され、お召や急行牽引のため重油併燃装置が装備された。名古屋での役目を終えたのち、京都・梅小路機関区に貸し出され当時故障続きだったDD54の応援に当たったが、実際に使用されることなく名古屋に帰り、1971年4月17日に廃車された。その後、準鐡道記念物に指定され、現在は「JR東海リニア・鉄道館」で美しい姿を見ることができる。
写真②は、そのC57139から亀山駅で伊勢方面への列車を引き継ぐことも多かったに違いない、亀山機関区のC57198が亀山を出てすぐの鉄橋を渡り下庄に向かう姿を真横からとらえたもの。デフレクタやキャブが一般的なC57とは異なる4次型のC57(190~201)で、第2次大戦後の設計で造られた。印象としてはC59を細身にした感じと私は思っている。この機関車は1973年9月に廃車され、どういうわけか千葉県君津市に無償貸与され久留里線の東坂田駅前東公園に展示されていたが、雨風でボロボロに朽ち果てて、2003年7月に解体されてしまった。数少ない4次型C57の保存機だっただけに、誠に腹立たしい。やはり保存はゆかりの地でないと、と思う。
写真③は室蘭本線栗山駅を発車するC57149。1971年1月の寒い朝だった。④は1969年6月羽越本線今川信号場~越後寒川を行くC57167。新津機関区の所属。⑤は総武本線日向八街間のC57が牽く銚子行き普通列車。1970年8月の霧の晴れない一日だった。牽引機はC5759で、佐倉機関区の蒸機は皆ヘッドライト(シールドビーム)が増設され、あまり美しい姿とは言えなかった。それに引き換え美しさを最後まで保っていたのが京都・梅小路機関区のC57だった。⑥は山陰本線保津峡(現在はトンネル内に移設、この区間はトロッコ列車が走っている)を行くC575牽引の下り列車。梅小路のC57の中でも、この5号機は特に美しく整備されていた。一日中逆光で山かげのこの区間は撮影の難しい場所だった。C575は廃車後姫路市御立(みたち)交通公園に保存され、保存状態は良いと聞いている。