• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

近江鉄道は1898年6月11日、滋賀県の彦根から愛知川(えちがわ)が開通したのが最初で、その後、鉄道の町米原から彦根を経て国鉄(現JR)草津線の貴生川への本線のほか、高宮~多賀大社の多賀線、や近江八幡~八日市の八日市線と、総延長59.5kmの路線を持つに至った。明治時代に創業以来、社名の変更をせずに存続している数少ない鉄道会社の一つで、あとは島原鉄道と東武鉄道があるだけである。

さて、私が近江鉄道を初めて訪ねたのは、乗車券①の日付でおわかりのように1965年7月4日のことだった。米原~鳥居本~彦根で少し撮影しただけなのだったが、訪ねたことに変わりはない。この時の旅は忙しかった。7月7日9時5分上野発の信越・北陸線回りの大阪行き特急白鳥で富山へ。ランチは11時40分~12時20分の枠(当時の食堂車は40分毎3回の予約時間が割り当てられていて、食堂車従業員が車内を巡回して予約をとっていた)で、食堂車キシ80で食し、富山へ。富山港線の岩瀬浜まで往復して旧・社型国電。富山駅付近で富山地鉄本線と市内線。22時5分富山発の524列車(新潟発大阪行き普通列車)で北陸本線交流区間終点の田村へ早朝5時6分着。何と乗ってきた列車の先頭には試作1両だけの凸型交直両用電機ED30がついていた。しかし何といっても田村~米原の目玉は交直接続に働く蒸気機関車D50たちだ。きれいなD50249、デフなしの335、パイプ煙突の350などが次々とやってきた。そして次の7時38分発214列車でD50249に牽かれて米原へ。
米原には朝の7時45分に着き、近江鉄道の客となった。といっても乗ったのは次の鳥居本まで。2本の列車を撮影してすぐ次の彦根へ。彦根の構内で凸型のED31などを撮って、米原へ戻り、9時28分発の新幹線こだまで名古屋へ。「あすか」と近鉄ビスタカーの並走を撮るべく近鉄烏森へ。そして津へと。この辺のことは別の機会に。

写真②の貨物列車は国鉄払い下げのED14が先頭に立っていた。近江鉄道では1988年3月12日まで貨物営業をしていた。ED14は1926年米国ゼネラルエレクトリック(GE)社製で4両が輸入され1962年に2と3が近江鉄道にやってきた。その後1と4も仙山線での活躍後、1965年春に近江鉄道に払い下げられ、ここで全4両が再び揃った。その仙山線で私は1964年の暮れにED141に出合っていた。私が少年のころ、神田の交通博物館近くのカワイモデルがED14の模型(HOゲージ)を発売していて、電気機関車の模型は外国型ばかりの中、国鉄型はこれしかなく、私も鉄道模型の世界へはこのカワイモデルのED14から入ったのだった。そんな次第でED14はなじみの機関車といってもいい。2019年3月までに全機廃車解体されてしまったのは残念でならない。

ED14が走り去った後、その余韻に浸る間もなく、続けてやってきたのが写真③、モユニ10+モハ201+クハ1201の3連である。近江鉄道では1985年3月14日まで大阪鉄道郵便局米原分局が郵便・小荷物の取り扱いをしていて米原-貴生川(きぶかわ)間に郵便荷物電車を運用していた。主にこのモユニ10がその任に当たっていた。モユニ10は1928年6月に川崎造船所(現・川崎重工業)で製造された元・武蔵野鉄道のデハ5552で西武鉄道モハ232を経て1963年9月に入線した古豪だ。近江鉄道は現在西武鉄道の完全子会社になっているが、60年近く前の時点でも、電車の塗色は当時の西武カラー(トニーベージュとラズベリーレッド)だった。1985年3月の鉄道郵便廃止まで活躍した。客用の2両はデータが手元にないが屋根の形状からすると川崎造船製のように思う。この2両も1990年には廃車となったようだ。


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