• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

私が初めて米坂線を訪ねたのは1964年1月初めのことだった。高2の時で、友人のE君S君と3人で東北夜行に乗って仙台へ。仙山線には3種のED44やED45など交流電化の試験試作電機がいて、作並ではED14や17も撮った。蒸機区間はC58だったが電化区間もあるために暖房車が連結されていた。山形からは準急「あさひ」で、開放的なキハ55の運転台で運転士といろいろなお話をしながら米沢に着いた。そして米坂線の旅となったのである。この時は途中での撮影はしなかったので、後日再訪をすることにしていた。

米坂線は、奥羽本線の米沢と羽越本線の坂町を結び、全線90.7kmすべてが単線で20駅(起・終点含む)ある。1926年9月28日に米沢~今泉間が開通し(米坂東線)、のちに坂町~越後下関間から始まった米坂西線とは、1936年8月31日に小国~越後金丸間9.5kmの開通で全通し米坂線となった。現在は米沢駅が新幹線開業で標準軌となったため、坂町から羽越本線経由で新津運輸区所属の気動車(DC)が2両編成または単行で走るローカル線である。

念願の再訪はなかなかかなわず、1972年の2月にようやく実現した。今は札幌在住のKHこと平井清高君が同行してくれた。彼は大学の鉄道研究会の研究テーマのため1969年の夏に米坂線に入り浸っていたらしい。
とにかく羽前沼沢を挟んで手ノ子方向や伊佐領側にも撮影好適地はあった。しかし積雪の中あまり無理もできず、羽前沼沢から1kmぐらいの範囲で撮影した。
線路端で撮った上り(米沢方面)貨物列車①の牽引機は「59634」。「ご苦労さんよ」と読めるこのナンバーの機関車は9600型式の535号機である。1922年1月31日に川崎造船兵庫の製造ナンバー733として新製された。撮影時50歳の蒸気機関車(蒸機)で、新製後広島、岡山、富山、金沢、直方と転属し、第2次世界大戦終結時は秋田。その後は庭坂、山形、米沢と移り、米坂線の機関車となった。1974年5月、米沢機関区最後の蒸機として北九州の後藤寺に転属し、その年12月に廃車された。現在は九州鉄道記念館で保存展示されている。今月31日は生誕100歳の記念日である。記念館では何かあるのか?

遠景に鉄橋を望む②は伊佐領に向かう下り旅客列車で、牽引機は9600型式蒸機。時間帯から第125列車と思われる。少し雪が舞っていて、「墨絵のよう」と私のお気に入りの一枚。
山中の雪景色はなかなか難しく、今回はこの2枚のご紹介としておこう。帰途は新潟に出て181系の特急「とき」で帰った、と思う。(記憶がだんだん薄れてきた)


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