• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

日本で一番短い名前の駅、といえば1891年(明治24年)の開業以来ずっと「津(つ)」であろう①②。漢字でも平仮名でも一文字である。今日はそこにまつわるものをいくつか集めてみた。
私がその駅「津」に初めて降り立ったのは、1964年7月22日の朝だった。かつてのコラム『長野のD50、亀山のC51』に記したあの時である。名古屋から国鉄ではなく近鉄の急行で行ったのはその方が早いからに他ならない。憧れの2200にも乗ることができた。国鉄では亀山経由となり距離も長く・・・・・と、そのあたりの話はいずれ『急行伊勢物語』に記すつもりなのでここでは省略。津駅に絞って話をまとめよう。
津駅は現在JR東海、近鉄そして伊勢鉄道(旧国鉄伊勢線)の駅である。開業は1891年11月4日。関西鉄道(のち国鉄)の亀山~津間開通時に開業した。1893年大晦日にはこちらものち国鉄となる参宮鉄道の津~相可(現・多気)間開通で中間駅になった。この頃の駅の姿を「津駅開業100周年記念乗車券」③に見ることができる。私がなじみ深いのは2代目の駅舎④で、この写真は1965年に志摩在住の神谷舜二さんから頂いたもの。私は肝心の駅全景の写真を不覚にも撮っていなかった。
津駅の乗降客の7割以上は近鉄の客である。その近鉄は前身の参宮急行が伊勢方面から伸ばしてきた津新町までの路線を1932年4月3日に津まで延伸したことで国鉄津駅とつながった。のち、関西急行鉄道時代を経て名古屋まで、現在の近鉄名古屋線の駅となり、津駅の西口は近鉄、東口は国鉄(現・JR)の管轄になっている。東口が表口で西口(近鉄口)は1992年4月1日に近鉄の駅長所在駅が津新町から津駅に移るまでは見るからに裏口で、私が初めて訪れた時、駅入場券は国鉄の券を売っていた。だが、乗降客数はもとより列車本数も格段に近鉄が圧倒していた。これは今も変わっていない。
1973年9月1日には名古屋方面への短絡線となる国鉄伊勢線(現・伊勢鉄道、津~南四日市)が開業。名古屋から伊勢方面の利便性が高まった様に思われたが、近鉄vs国鉄・JRは勝負にならない。近鉄の圧勝である。
話を津駅に戻そう。実は私はあの駅舎の雰囲気が好きだった。外観(旧津城主藤堂家御倉に摸して造られた)もそうだったが内部の雰囲気はもっと落ち着いていた。入って左に出札窓口、その先隣りに小荷物扱い所。そこでは手荷物の一時預かりもしていた。コインロッカーはまだなかった。正面に改札口。右には座り心地の良い木製のベンチが並んだ待合室と売店があった。ニス塗りのベンチは黒光りがしていた。売店は21時ころまでやっていて「鉄道弘済会」の看板がかかっていた。5回ほど訪れたあの駅舎は、1973年の伊勢線開業時に取り壊されて駅ビル(民衆駅)⑤⑥となってしまった。その駅ビルも2014年にさらに改装されている。あの落ち着いた雰囲気は夢に出てきたりして今でもよく思い出す。
私は郵趣家(切手集めをしていた子どもがそのまま大人になるとこう名乗る)でもあるのだが、津駅前郵便局が「津駅開業100周年」の際、記念のパンフレットを作り販売した⑦⑧。桃色と黄色の2種類(内容は同じ)あり、二つ折りの内面には当時売れ残っていた電気機関車シリーズの切手が収められていた⑧。せめて記念の小型印でも作ってくれればよかったのだが、消印は普通の和文日付印が捺されていた。貼ってある切手は410円分。随分高いリーフレットだった。その表紙には私の好きな2代目駅舎の写真⑦がある。ただ、昭和12年頃と説明にあるのは大間違いで、多分1965年ごろの、④とは反対の方向から撮った写真だ。公衆電話ボックスが近代型になって2つあるのがわかる。津駅開業90周年記念乗車券⑤に使われた写真は多分1960年ごろの駅舎だ。旧型の電話ボックスが一つだけある。
ところで②の駅名標を見て隣駅をすぐに漢字で書ける人はどのくらいおられるだろうか。一身田と阿漕。一身田は名刹高田本山専修寺の最寄り駅。阿漕は『阿漕浦の平次(平治)』(国立国会図書館の公開資料では平次)の物語で世に知られている。50年ほど前にあの津駅の売店で買った「平治煎餅」の箱は今もコレクションボックスとして使っている。
最後に国鉄と近鉄の駅入場券を何枚かご紹介しよう⑨⑩。近鉄⑨の一番上が「津新町」なのは、先述したように近鉄津駅窓口では近鉄の入場券がなかったので、隣の「津新町」を記念に入手したため。乗車券や寝台券などは別の機会にご紹介する予定。


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