• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

かつて新幹線開業前、東海道本線には東京と大阪を結ぶ夜行急行群があった。銀河・すばる・明星・あかつき・彗星・月光・金星・・・・・懐かしい顔ぶれである。そのうち「銀河」は2008年3月15日のダイヤ改正で廃止されるまで走り続けた。一方で、名古屋大阪間を関西本線経由でつなぐ急行大和の存在を忘れてはならない。東海道の夜行急行群に比べてわずか1本だが、南都天王寺(始発・終着駅は湊町=現JR難波)と東京を結ぶ「大和」は、湊町の下り到着と上りの発車時刻が便利な列車として知る人ぞ知る人気列車だった。奈良の人々にも都合の良い列車だった。
そんな中、和歌山市は県庁所在地であるにもかかわらず東京に直結する列車がなく、東京へ直通する列車を望んでいた。これに応えたのが「大和」だった。和歌山市(現・和歌山駅)から和歌山線経由で王寺まで普通列車に東京行きの寝台車を1両連結して走らせ、王寺で大和につなぐというものだった。そうなると車掌室の設備のある寝台車が必要になるのだが、その頃の国鉄にはそういう車両のゆとりはなかった。一方当時は寝台車需要の高まりに合わせて寝台車(ナハネ10)の新造とともに、第2次大戦中に寝台車(スハネ30と31)から座席車(オハ34)に改造されていた車両の寝台車への復元改造も進められていた。それらはスハネ30となる予定だったのだが、その内の幡生工場で改造中の3両を急遽車掌室付にして間に合わせることにした。この「大和」和歌山編成用の車両こそ3両(うち1両予備)だけのスハネフ30型式①である。
急行大和は1950年10月から、それまでの東京~名古屋間の準急を延長格上げする形で誕生、亀山までは鳥羽行きの編成(亀山~鳥羽は普通列車)も連結していた。翌11月に列車名「大和」と命名された。
利用客の増加と寝台車の増結で1953年11月からは鳥羽編成と分離され、鳥羽編成は「伊勢」となった。「伊勢」についてはいずれ改めて「急行伊勢物語」を書きたいと思っている。その後は、新幹線の開業による乗客の減少などを経て、1972年3月、急行「紀伊」の一部になっていた王寺行き編成の廃止まで「大和」の歴史は続いた。私が知っている大和は1963年以後の大和だが、この列車はその運転面で乗務員泣かせの列車だった。大和は名古屋~湊町を奈良機関区の重油併燃装置付きC57の牽引で、名古屋~亀山を名古屋機関区、亀山以西を奈良機関区の乗務員が担当した。特に下り列車が大変だったと、元乗務員の体験記述(『国鉄名古屋機関区蒸機とともに』1992年・非売品)にある。名古屋機関区の乗務員はその所定速度の速さをクリアするために四日市から亀山に続く上り勾配を、全力でしかも余力を残して亀山で奈良の乗務員に引き継がねばならなかったが、定時に着いてもボイラーの圧力(缶圧)が低くなっていたりすると奈良の乗務員は缶圧が回復するまで発車しなかったそうだ。その遅れは名古屋の責任とされた。奈良の乗務員の体験談もそこに載っているのだが、「亀山の西には関から柘植に向けての難所加太峠があり、缶圧が低いまま発車すると25‰を登れなくなるから」とあった。亀山からは同じ奈良区のC57が後部に補機として付くのだが、それでもぎりぎりの走りだったとのことである。奈良区では他なら特急を担当するようなベテランをその任に充てたとも書かれていた。
本題に戻そう。乗車券は残っていないのだが急行券と寝台券がある③。発売は高野口駅、和歌山線の駅だ。大和の9号車。発売日は昭和41年(1966)年5月1日、乗車日は5月6日である。寝台券は高野口⇒東京。和歌山線内は普通列車なので急行券は王寺からとなっている。今となっては先述の大和・和歌山編成の証拠となる貴重な切符だ。この時点で車両はナハネフ10②に代わっていた。この頃の大和は湊町発着が10号車~14号車の5両。それに和歌山直通の9号車を入れて計6両。峠越えもだいぶ楽になっていた。1~8号車は名古屋で連結される金沢発米原経由の急行能登だった。東京~名古屋は能登と大和が一緒の列車だったので、名古屋から東京に向かう乗客には連名の「能登・大和座席指定券」④が発売された。この券は13号車なので大和編成の方だ
わずか数枚の切符から、いろいろ思い出した。
(写真は「大和」ではありません)


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