• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

長野でD50360のキャブに添乗という貴重な体験をさせてもらった私は、準急「おんたけ」で翌早朝名古屋に着いた。長野~名古屋の夜行列車は準急「きそ」が定番だったが、その1時間前を走る「おんたけ」は多客期のみの不定期列車で、この日は予想通りガラガラだった。発車前からゆっくりと眠り、木曽福島で一瞬目覚めたが、次に気づいたのは「間もなく終着名古屋・・・」という車内放送だった。
そのままC51に会いに亀山に向かうはずだった。だが私には亀山の近く、県庁所在地の津(入場券①)に会いたい人がいた。電話はまだ全家庭に普及していない頃で、出発前日に届いた速達で、22日の午前中に会いたいと言ってきた。午前の亀山機関区見学の予定を午後にしてもらい、まず津に向かった。
近鉄名古屋6時発の宇治山田行き急行はあの有名な2200系電車(乗ったのはモ2205)で、感激しつつ7時4分に津に着いた。津駅は国鉄と近鉄の共同使用駅で、東口(表口)が国鉄、西口が近鉄の管理だった。東口は1973年に当時はやりの近代的な駅ビルになってしまったが、私が初めて訪れたその時は平屋で白壁・土蔵造りの、落ち着いた待合室のある良い駅(記念乗車券③・右の写真はC51225)だった。会う約束は8時。ところが今と違ってそんな時刻に営業している食堂はなかった。名古屋なら駅弁があったなと思っても後の祭り。営業準備中の喫茶店がカレーライスならすぐにといって作ってくれて助けられた。空腹が満たされて思ったのは、風呂に入ったとはいえ昨日のD50の煤の匂いがあちこち染みついている感じで、これで人に会うのかと急に気になりだした。まあ仕方ないか。
そんな次第で亀山(入場券②)には津12時01分発の830D(キハ305の単行、これが満員で座れない)で12時28分に着いた。機関区に直行。予定時刻変更のお詫びは許してくださり、構内を案内していただいた。その頃は参宮線(現・紀勢本線)六軒の事故(1956年10月15日18時22分発生の六軒駅構内での列車脱線衝突事故、死者42人その多くは修学旅行生、負傷者94人)の裁判(下り列車乗務員の信号誤認か、駅員の信号操作の遅れか、が争われた)の証拠品として当該機関車(C51101、C51203など)の残骸が機関区に残されていた。そのため構内のすべてを勝手に撮影することはできなかった。C51101は天皇の伊勢行幸時のお召列車予備指定機で思わず撮ってしまってから、「それは撮らないで」と言われたので、その後誰にも見せず保管している。
一通り構内を見せていただいてから、当時在籍していた3両のC51(209、225、240)を自由にどうぞと言われて撮影した。3台のC51のうち、209号機は煙突がパイプ煙突に改造され、240号機は動輪が近代型のボックス動輪に変えられていた。化粧煙突でスポーク動輪の225号機は、米子の80号機と双璧をなす当時の有名機関車だった。しかも、ナンバープレートが戦時供出を免れた形式入りの大型のままだった。その後の連絡で、1965年2月28日、翌日のダイヤ改正で消える最後の上り姫路快速(鳥羽~姫路)の重連の先頭に立ちそれを機に引退する(廃車)と聞いたが、その翌日が大学入試で断念した。結果、その入試には落ちたので、入試よりC51225を選んでおけば、翌日の新設特急「くろしお」や「あすか」の1番列車に乗れたかも・・・
亀山はC51ばかりでなく、参宮線(紀勢本線)に入るC57やDF50(長野でも出会ったディーゼル電気機関車)、名古屋から来る名古屋機関区の綺麗なC57、加太越えに挑むD51、キハユ154という変わり種のディーゼルカーなどがいて、賑やかだった。ここでは本題のC51を2枚だけ(④~⑤)掲載しておこう。C51225は庫内に入れてあったものを、撮影しやすいように引き出してくださっていた。その日は240号機に火が入っていて、夕方貨物列車の後補機として加太越えに向かうという話だった。加太は暗くなるので断念したが、亀山の発車シーンだけでも撮っておけば良かったと、後悔ばかり。18歳の私としてはまああんなものだったかと思う次第。もしかしたら私の年齢ぐらいが、火の入ったC51に会えた最後かもしれない。
亀山からは関西本線で名古屋へ出て、姫路が始発の夜行鈍行144列車(名古屋19時22分発)のスハフ32で東京に朝4時56分に着いた。長野で買ったこの時の乗車券⑥が保存してあった。千葉で途中下車してこの切符を手元に残すために一つ先の本千葉まで買ったものだ。(完)


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