• MY HOBBIES / Kenichi Hamana

5月というと私には成田空港開港の思い出がある。いわゆる成田闘争の影響で、成田空港(新東京国際空港)の開港は遅れに遅れたが、ようやく1978年5月20日に開港となった。その日私は日本青年代表団11名の一人として中国の成都にいた。ということは、つまり私は羽田から出国して成田に帰国したのだ。そして当然のことながら京成電鉄が成田空港へ走らせたスカイライナーの第一便に乗りたくても乗れなかった。

成田に空港ができるそのずーっと前から京成電鉄は成田山の参詣客のために上野成田間に特急「開運」号を1日2往復走らせていた。正月の初詣などの多客時には増発してもいた。1960年代には流線型の1600型3両編成があり、その前も専用の1500型など、一般車とは一線を画した電車で運行していた。1600型が老朽化してからは一般型の3100型や3200型の座席を一部クロスシートにしただけの、やや見劣りのする「開運」号を走らせ、座席指定の特急料金も大人70円と遠慮した金額設定だった。
それが一変するのは成田に新国際空港が誕生し、その空港まで乗り入れることが決まってからだ。京成は1972年3月に新車スカイライナーAE(Airport Expressの略)車を5編成用意した。空港線もその年11月に完成した。しかし空港の開業は見通しが立たなかった。①は宗吾車庫に勢ぞろいしたまま、営業運転に入れないAE車。②はその試運転中の様子。③は1973年12月29日14時20分ごろ京成成田駅に勢ぞろいした、左から一般急行(今は1時間に3本ある特急料金不要の特急)、試運転中のAE車、右端が14時30分発の上り第2開運号(3291~3294)。実はこの日が、開運号の最後の日だった。新空港と空港線の開業はいつになるか見込みが立たなかったが、AE車は完成して1年9か月待機中のままだった。しびれを切らせた京成は、年末年始の成田山参詣客用にAE車を使うことにした。料金は開運時代の70円を当分の間使うことにして、新車での運行を決断したのだ。
私は京成電鉄の深谷一男さん(故人)から誘われて、最後の上り開運号と、翌12月30日のAE車による最初の下り特急に乗ることができた。④はその時の切符。29日の上り最終の開運号は、鉄道フアンの数もさほど多くはなく、静かに京成上野駅に滑り込んだ。翌朝改めて千葉から京成上野駅に出かけた。前日までの第1開運号のダイヤで、車両だけがパリパリの新車AE車になっていた。特急券の1号車1番C席は、普通には買えない席だった。空港に行かないのでスカイライナーという名称もまだ使えず、ただの有料特急(前面表示は後の「スカイライナー」ではなく「特急」)だったが、前日までとは比較にならないほどの乗り心地だった。深谷さんは元京成の運転士で私と同じ千葉市在住。鉄道写真展の会場で知り合い、親しくさせていただいた。氏は運転の現場を離れた後は本社で運行計画と列車ダイヤの編成にかかわり、最後は東葉高速鉄道の開業準備に当たられた方だ。

結局新空港は先述の如く4年余り後の1978年5月20日開港となり、京成成田空港駅は1978年5月21日に開業した。今の空港駅ではなく現在の「東成田駅」で、空港ターミナルへはバス連絡となっていた。乗り入れた航空会社は32社でANA(全日空)はまだ国際線に進出していなかった。記念乗車券等⑤⑥をご覧いただくとその辺のことがお分かりになるだろう。よく見ると、ノースウエストやパンナムなど懐かしい航空会社もある。特急料金(ライナー券)は一気に500円になった。それまで新特急はエアライナーなどと呼ばれ、初詣時を除くと気の毒なくらいガラガラだった。

JRとともに乗り入れとなった現在の空港新線の開業はさらにその13年後1991年3月19日であった。空港新線開業時、JRのNEXに対抗するため新造された2代目スカイライナーAE100の登場で、早期退場となった初代スカイライナーの下回り(動力部分や台車など)は、京成としては最後の車体塗装車両(ステンレス車ではなく普通鋼製車)3400系に使われ、今もあの音を聞くことができる。


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