お二人とも鉄道ファンとして知られる石破茂前総理と公明党の斉藤鉄夫前代表が対談の席で、斉藤氏が石破氏に「1970年の大阪万博は鳥取から何に乗って行かれましたか?」と尋ねたところ、石破氏は「デーゼル特急で行った」と答え、斉藤氏は当時の時刻表を持ち出し、「これですね・・・」と話が弾んだと聞いたことがある。
そう、「デーゼル(正しくはディーゼル)特急」って今は言うだろうか。電車でも非電化区間のディーゼルカーでも、普通に「特急で」と言うに違いない。私もこの「デーゼル特急」という言葉に懐かしさを覚えた一人なのだ。50年前のあの頃、急行列車も「ディーゼル急行」「蒸機急行(ほとんど無くなってはいたが)」そして「電車急行」などと呼んでいた。
私にとって初めてのディーゼル特急は、上野から碓氷峠を食堂車(キシ80)で越えた「白鳥(後のはくたか)」や初渡道の際の「はつかり」だが、思い出の多いのは何といっても「くろしお(現・南紀)」だろう。それも、キハ80系時代のことだ。キハ80系は、初のディーゼル特急「はつかり」として1960年12月10日のダイヤ改正で東北本線にデビューした。食堂車に静けさを求めてディーゼルエンジンを付けつけなかったこともあり、出力不足で十三本木峠(D51三重連で有名)など岩手~青森区間で、いわゆる初期故障が多発した。
「特急はつかり事故ばつかり」などと揶揄され散々だったが、改良を重ね、1961年秋のダイヤ改正では北海道に初の特急「おおぞら」、東北に「つばさ」「やまびこ」、裏縦貫の「白鳥」、山陰の「かもめ」「まつかぜ」など多くの特急が登場し、全国に特急網が築かれた。このとき先頭車は、電車特急「こだま」型を模した「はつかり」のキハ81から、増結や分割・併合に便利な貫通式のキハ82に代わり、これも全国へのディーゼル特急拡大に寄与した。
そしてその3年半後。1965年3月1日のダイヤ改正で、それまで特急のなかった紀伊半島にディーゼル特急が走ることになった。名古屋と天王寺を紀勢本線回りで結ぶ紀伊半島一周の「くろしお」、そして間合い運用で名古屋~東和歌山を関西本線経由でつないだ「あすか」だ。その初日、私はN国立大学受験のため名古屋にいたが、当然のことながら駅に見に行けなかった。
この「くろしお」は1等車(現・グリーン車)を7両編成の中に2両組み込み、食堂車もつないだ立派な特急だった。先頭車はキハ82でスタートしたが、その後、「はつかり」の電車化で、「つばさ」⇒「いなほ」と転じていたキハ81全5両を増結などのために引き受けるなど、キハ80系のバラエティーの多くを知ることのできる列車だった。
1978年の和歌山~新宮の電化で、新宮以東の非電化区間はキハ80系のままだが「南紀」に改名されてしまった。写真は①が多気付近の7両プラス2両増結のキハ81を先頭にした「くろしお」。3両目にキハ82。②は荷坂峠を越えるキハ81が先頭の「くろしお」。③はその翌年、大内山から梅ケ谷に向かう改名後の「南紀」。「あすか」単独の写真がないのだが、④は烏森付近で近鉄特急のビスタカーに追い抜かれた向こうに小さく見えるのが「あすか」(1965年7月)。「あすか」がダイヤ通りあと少し早く来てくれていたら、ここで近鉄特急との並走が見られる。そう踏んで待ち構えていたのだ。近鉄が早すぎたのか・・・。
特急券⑤の上段左は初日の「くろしお」。右は、列車名「くろしお」印刷の1等車券。下段左は運転開始7日目の「あすか」の特急券。当時特急料金は最低600円からだったが、乗客の少なさが想定され、特定特急料金300円が設定された。それでもお客がいなくてついに全車(1等車を除く)300円の自由席となったのが右。乗車駅も下車駅も印刷されて、全区間何処で乗っても降りても300円だった。⑥は運転開始時、名古屋駅で乗客に配られた記念券。この時駅に貼られていた大きなポスターや、運転開始時のオレンジ文字のサボと愛称板も持っている。思い出深い「くろしお・あすか」である。