私の父の出身地は群馬県高崎市(旧・榛名町、その前は久留米村)で幼少時は毎年夏の家族旅行が父の実家を訪ねる旅だった。第二次大戦後の10年ほどは観光旅行という概念は普通の家庭にはなかった。その結果私は年に一度、上野まで京成電車で行き、レストラン「永藤」で昼食をとり、お土産に「玉子パン」を買い、高崎線の列車で高崎までの約2時間の鉄道旅を楽しんだ。普通列車の機関車がEF53からEF57になり、小学3年生の頃には80系の電車になった。80系も初期の3枚窓から、100番台そして全金の300番台と変化していった。楽しみだったのは高崎駅が近づくと、右手にいろいろな電気機関車が見えたことだ。その中にちらっと見えるEF55の姿がいつも気になっていた。子供心にもその機関車が、かつて東海道本線で特急「つばめ」を引いた流線形の機関車であることは知っていた。それが廃車となりそこ(高崎第二機関区)で保管されていることは小学校高学年の頃に知った。高崎第二機関区(高二区)にも何回か撮影に出かけたが、EF55はいつも何かの物陰に留置されていて、うまく撮影できなかった。
その高二区である時一般公開があり、山男三兄弟、即ちEF62、63、64の各1号機を並べて撮影できるように展示するとの情報が入った。就職してだいぶたってからのことだったが出かけてみた。山男三兄弟とは、碓氷峠がアプトから粘着運転に代わり、強力な機関車が必要になって作られた、碓氷峠通過(信越本線)用のEF62、その碓氷峠区間専用の補助機関車(補機)EF63、そして、上越線(高崎~水上~長岡)の勾配区間で働く客貨両用強力機関車のEF64の3形式のことである。のちにEF64は1000番台が製造され車体デザインも変わったが、この時点ではまだ存在していなかった。とにかくそれらの1号機が並ぶというのはあり得ないことと、私もカメラを担いで出かけてみた。その時の気に入っている1枚がこれ①。顔だけだが、左から順にEF64、EF63、EF62の各1号機。とくにEF63-1は先行試作機で2号機以降とは少し形態が異なる。隣のEF62‐1とともに、建設中の碓氷新線で数多くの試験、試運転を繰り返していたのを、アプト撮影によく出かけた私は何回も見た。その時はスヌ31やマヌ34、ヌ200などの暖房車だけをたくさんつないだり、まだ現存していたマロネフ58などのWルーフの旧1等寝台車などをつないで試運転していたのを思い出す。
ここでEF55の話だ。その高二区一般公開の日、信越本線高崎横川間に現役復帰していたEF55が7両の客車を牽いて走った。当然私もそれを撮りに行った。客車は高崎運転所の旧型客車で、イベント列車に使われているあれである。最近はオハニ36に代わっているがこの当時は高崎寄りがスエ78だった。事業用客車で、売店車として鉄道部品などが車内で販売されていた時期もあった。写真②は松井田付近、横川に向かう下り列車。先頭の客車はスハフ42。軽量客車登場前の最後の急行用客車。窓枠がアルミサッシに改造されていた。③は高崎に向かう上り列車で、1両目の客車がスエ78。この車両に乗りたいという人も多く、人気の車両だった。